あなたの発射時の目標位置:私達について 杜甫について

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  杜甫、字は子美である。西暦紀元712年度に河南鞏県(今の鞏義市)で生まれたのである。二十歳から呉、越、斉、趙で旅をした。747年度上京し、科挙を受験したが、及第せず長安に旅立ち十年間滞在した。755年度の「安史の乱」が勃発し、翌年粛宗が即位したと聞いたので、独り身で霊武(今の寧夏霊武の西北にある)に赴いたのである。運が悪く途中で反乱軍に捕まり、長安に護送された。757年度、隙を狙って長安から脱出し、鳳翔方向に逃げて粛宗に走りった。朝廷に左拾遺と任命され、故、世には「杜拾遺」と呼ばれる。のち房琯免職事件で粛宗の怒りを買い、華州に左遷された。759年官職を捨て西に秦州(今の甘粛天水)に旅立った。その年の終わりに同谷(今の甘粛成県)経由で成都に赴いた。760年の春、成都の西郊外にある浣花渓の畔で茅葺の家を構え、住まいとしたのである。

 

 成都の草堂で前後3年9ヶ月滞在し、『蜀相』、『春夜喜雨』、『茅屋為秋風所破歌』等の名作を始め、残った詩作が240首余りである。764年度、成都知事兼剣南節度使の厳武の推薦があって節度使参謀、検校工部の員外郎の位を授かり、故、世には「杜工部」とも呼ばれる。765年度、友人である厳武が病気で死去した後、家族を連れて船で蜀を後にし、夔州(今の重慶市奉節県)に旅立ち、またここで二年間滞在した。768年度、家族を連れて三峡を離れ、のち荊、湘で流浪し、船に住んでいた。770年度の冬、湘江の船で病気で死去し、沒年59歳であった。
 

  杜甫は唐の王朝が繁栄から衰退へ変わる時期に生まれ、戦乱時局の波乱に巻き込まれ、困窮して流浪の身となり、当時の諸社会光景を身にしみて感じたのである。国を憂い時勢を憂い、その思いを詩で語ったのである。今に残った1450首余りの詩は、思想と芸術的素養が非常に高いため、中国文学の発展にはかり知れない影響を与え、後世には「詩史」だと称される。杜甫は中国詩歌界で先人の成果を集大成し、将来の発展に道を開き、新しい分野を切り開いた最も偉大なる現実主義の詩人に尊敬され、「詩聖」だと褒められる。

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